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等高線 No.87
飯豊に死す、さらば毛利さん

裾野麗峰山の会  後藤隆徳
 
「慙愧(ざんき)に耐えない」「慙愧に耐えないな〜」と谷川岳登山指
導センターの土間に横たわる川口智也(もとや)君の冷たくなった手を
握り締め毛利さんは何度も呟いた。長いまつ毛が揺れていた。1981
年6月27日、谷川岳烏帽子岩で懸垂下降中墜落死した三島労山会友、
川口君の救助に向かった時の事である。
 谷川岳で追悼登山を幾回か行った。毛利さんは慰霊碑に刻まれた彼の
名前を何回も撫ぜながら、「山で死んではいけないんだよな〜」と語り
かけた。会員の柳下君が前剣で滑落死の時も、「慙愧に耐えない」「慙
愧に耐えないな〜」と何度も何度も繰り返した。
 しかし事もあろう、まさか毛利さんが山で遭難死しようとは。人間の
運命・宿命は分からないものだ。あれ程「山で死んではいけない」と願
い叫んでいた毛利さん自身が山で逝くとは、、、。

 毛利さんと初めて会ったのは1976年1月1日、南アルプス・三伏
峠の下りだった。その年、私はO(オー)と二人で仙丈岳から仙塩尾根
を縦走し最終日に三伏峠を下りていた。峠から下って行くと前を何人か
の男たちがアイゼンを付けずに慎重に下っている。私たちはアイゼンを
使用していたので抜いて先行した。下の谷川で洗顔していると先ほどの
パーティーが丸木橋を渡って行く。フッとザックを仰ぐと「三島勤労者
山岳会」と書いてある。
 毛利さんの姪が私の勤務する会社にいて、事前に情報は得ていたので
声を掛けると話が弾み、鹿塩のバス停まで一緒に歩いた。当時の毛利さ
んの歩き方は、いわゆる「ガニマタ(O脚?)」で、「こんな歩き方で
よく歩けるな〜」が第一印象だった。何かその歩き方が可笑しく、滑稽
で仕方がなかった。毛利さんは話し好きで一番相手をしてくれた。毛利
さんは43歳、私が29歳の時である。バス停に着き時間を確認する
と、次のバスまで相当時間があった。運良く(悪く?)バス停は酒屋だ
った。
 あっという間に盛り上がり「初対面の酒盛り」が始まった。その後、
3月21日富士山で再会、4月私は三島労山に入会した。結局、ワイフ
も三島労山で「調達」し、翌年仲人を毛利さんにお願いすることにな
る。

 同年、9月17〜19日、二人で北岳バットレスに行った。2日間で
四尾根〜Dガリー奥壁〜城砦と中央稜をやった。当時、広河原にはまだ
国民宿舎があり、夜行で行った時の「常宿」はそこの入口階段下だっ
た。毛利さんは初めての「本ちゃん」だった。43歳で初めてバットレ
スを登攀し「感動・感激・感心」は相当なものだったようだ。その後、
毛利さんとは77・80・85年と4回バットレスに上った。
 また、86年には前穂高岳東壁・右岩稜古川ルートを登攀している。
右岩稜を終わりAフェースに向かう。毛利さんがどうしても上れなくて
私が行く。ところが毛利さんが打ったハーケンにアブミで乗ったらモロ
に抜け、奥又白谷に宙ぶらりんした。一瞬「やばい、どうかな〜?」と
思ったが、毛利さんの巧みな?ザイルワークで5m程の墜落に留まっ
た。
 毛利さんは身が軽く岩登りは上手かった。飲み込みが早く、教えがい
があった。43歳の年齢から考えられない運動能力だった。若いころス
ケートで鍛えた足腰は本物だった。
 記録を調べ珍しかったのが、80年11月に小川山・スラブ状岩壁、
屋根岩二峰南稜を登攀している。初めての本格的スラブ登攀に毛利さん
は大分苦労した。もっとも当時は今と違い「普通の登山靴」で上ってい
たから無理もない。毛利さんは垂壁が上手く、私はスラブが得意だっ
た。そんな付き合いで毛利さんは、「ゴッちゃんは俺の岩の先生だよ」
と何度も言ってくれた。
 ちなみに毛利さんには三人の「先生」がいたそうだ。一人は杉澤君。
一人は竹端さん(伊豆ハイク)。そして私。それぞれ違う分野の先生
で、それなりの付き合い方があったようだ。
余談だが誰が言ったか毛利、杉澤、竹端、私を「三島労山の四天王」と
呼んでいた。その後、皆さん県連の要職も務め、今は独立しそれぞれ地
域で奮闘している。

 毛利さんとは冬山もよく行った。1976年年末年始は(以下年号の
後は年末年始)・弘法小屋尾根〜北岳、77年・鋸岳〜甲斐駒ガ岳、7
8年・聖岳東尾根〜茶臼岳、79年は二人で仙丈岳地蔵尾根〜甲斐駒ガ
岳〜黒戸尾根、80年・爺ケ岳東尾根〜鹿島槍ガ岳、81年・遠見尾根
〜白岳(五竜岳)82年・遠見尾根〜五竜岳、83年・栂池〜白馬岳、
84年・常念岳、85年・毛利さんは横尾尾根、後藤は西穂高岳。
 86年・毛利さんは徳本峠〜大滝山、後藤は中崎尾根〜槍ガ岳。87
年・毛利さんは表銀座、後藤は涸沢岳西尾根〜奥穂高岳、88年北鎌尾
根、89年・柳下君遭難年で毛利さん北沢峠から甲斐駒・仙丈岳、後藤
は赤河原〜甲斐駒。90年・早月尾根である。
 印象的な冬山は数々あるが、76年の弘法小屋尾根は若くもあり充実
した冬山だった。三島労山もアルプス冬山縦走は初めてだった。間ノ岳
から稜線小屋(現在の北岳山荘)までモーレツな地吹雪で、毛利さんの
「長いまつ毛」に「氷の玉」が付着し、重みで「瞼が開かない」と言う
珍事があった。この年と翌年の鋸岳で、二年続けてテントのポールを忘
れた。
 二人だけの仙丈岳地蔵尾根も厳しい嵐だった。腰痛で不参加の杉澤夫
妻に登山口まで送ってもらった。嵐の中一日で地蔵尾根を上り、B隊が
いる北沢峠に着いたのが17:00。B隊とは幕営地が誤認で合流出来
ずガッカリ。写真好きだった毛利さんが、翌日甲斐駒で撮影した日の出
の写真が三島市展で「入選」する「ご褒美」があった。
 白馬岳では不調の川口諒子さん(智也君のお母さん)を杉澤君とサポ
ートし遅れて帰幕したら先に下った毛利さん達メンバーが居なくて捜索
騒動があった。その後無事発見し、大池に張った例の10人用カマボコ
テントで、毛利さんと「隠し酒」を調子よく飲みすぎ、雪の中でゲーゲ
ー嘔吐した。北鎌の帰りでは穂高牧場の小屋で「ナンパ」してしまい宿
泊し大騒ぎ。
 毛利さんは翌朝、迎え酒が利き過ぎ酔っ払って渡辺昭二君に荷物を持
って貰って下山。これには又、別の後日談もあるのだが、、、。沼津労
山の山本康平さんが遠路迎えに来てくれた。若くもありやや脱線気味。
愉快でほろ苦く傑作な思いでは尽きない。「郷愁」かもしれないが、こ
の頃が一番面白かった。
 いずれにしろ、私の40年の登山人生でこの冬山10年は「黄金時
代」と言える。毛利さんも「輝いていた」時代だったと思う。この時代
を毛利さんと共有出来たことは「幸せで大きな財産」と思う。

 91年には三島労山20周年記念山行で「ヨーロッパ・アルプス」に
出掛けた。モンブラン、ミディ〜プラン縦走、マッターホルン(途中ま
で)、モンテローザ、ブライトホルン、ほかに上った。毛利さんは隊長
で参加した。
 初めての海外の山だったがヨーロッパ・アルプスは予想外の素晴らし
さで「感動・感激・感心」の連続だった。紺碧の空を貫く針峰群、万年
雪を抱えた巨大な山塊モンブラン、太古のまま永遠に横たわる蒼い氷
河。シャモニ、ツェルマット街の「テント生活」は「異文化交流」で楽
しかった。
 しかし、不慣れな海外の長い山旅でストレスが溜まり、問題は無くも
なかった。毛利さんは隊長でありながら、酒が過ぎやや統制を欠いたり
した。帰国後、報告書の中でその件を私がつぶさに報告をしたら、毛利
さんは憤慨した。私としては事実を伝えたに過ぎなかったが、毛利さん
は気に入らなかった。しばらくの間、二人に気まずい雰囲気が漂った。
 だが、毛利さんが亡くなり改め記録を調べてみた。毛利さんがこの山
行に参加した時の年齢は「58歳」だった。偶然だが丁度、現在の私と
同じ年齢だった。正直言って「日ごと力は落ちる時」である。それを承
知で貴重な休暇をやりくりし、少ない資金で記念山行の隊長を務めたく
れた毛利さん。毛利さんが参加しなかったら、この記念山行は成功しな
かっただろう。もっと敬意と感謝の気持ちを持つべきだった。

 三島労山には、1976年から2004年まで28年間在籍した。し
かし1994年に「裾野麗峰山の会」を立ち上げ、実際に活動したのは
18年間だった。その間、毛利さんとは「186回」登山した。94年
1月23日、安倍奥前衛・大山、突先山(とっさきやま)県連交流ハイ
クが毛利さんと実質最後の山行だった。この10年、充分な付き合いは
少なく、最近の登山に助言が出来なかった事が唯一心残りだ。
 元来、毛利さんは「親分肌」で何かと面倒見が良い人だった。出会っ
てすぐの頃は「俺が絶対嫁さんを紹介する」と何回も口説かれた。私が
窮地の時は何度もかばってくれた。音楽も好きでコンサートには必ず駆
けつけ声援をくれた。景気のいい時は随分三島で飲まして貰った。最後
に寄る所はいつも決まって「扇」だった。ここのお母さんの「ヒデコさ
ん」は毛利さんのお気に入りだった。私は今でも時々訪れるが、毛利さ
んの話題は尽きない。
 よくドライブに誘われたこと、夏祭りで毛利さんが「女物」の浴衣を
着て来た事など、昨日の様に「ヒデコさん」は話してくれる。ニコニコ
と「何でドライブなんて誘うんかね」なんてシャシャーと言う。分かっ
ているくせに。もうあの佐渡情話の「オミッちゃん」も得意満面の「イ
ェ〜イ」の雄叫びを聞けないのはいかにも寂しい。「ミキ〜ヨ」「ミキ
〜ヨ」(村松美喜代さんのこと)も、まだ何処かで言っているかもしれ
ない。
 初音台に家を構えた当時が絶頂期だったか。年始の挨拶に行くと和服
をビッシと決め、自慢の「書斎」に案内してくれた。「これは杉澤が作
ってくれた本棚だ」と嬉しそうに話してくれた。本・文章を大事に大切
にする人だった。独特の「ガリ」は味があった。まだ、奥さんの若子さ
んも元気で口喧嘩も健在だった。だが、会社の設備投資が大きく厳しい
と「こぼした」のもその頃だった。亡くなる前、新聞に投稿が随分掲載
された。民衆のため、社会の矛盾と不公平を追及・糾弾する正義感の強
い人だった。

「山」は「実力」の世界だ。川口君はロープの末端を結束しないで懸垂
下降し、途中でエイト環が抜けて墜落した。柳下君は残雪の剣岳に上る
には早すぎた。毛利さんは石転び沢でアイゼンを使用すべきだった。
経験者が陥りやすい失敗は「慣れ」である。経験があるゆえ「判断が曖
昧になる」。山は怖い。過去の教訓がなかなか生かされないのも、山の
事故の特徴である。同じような事故が多いから分析・研究が必要だ。毛
利さんの事故がせめて今後の「安全登山」に生かされることを願う。
                  (2005・12・22)
等高線 飯豊に死す、さらば毛利さん