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 創立10周年記念山行・地域研究                                          鈴野山
通算山行
bP3、14
報告者
後藤隆徳
年 月 日
2003年5月24日 ・ 6月21日
二万五千図
伊豆松崎
山  名
南伊豆山塊・鈴野山(すずのやま、486.8m)
体力度=3 技術度=2 藪漕=少しある 道標=全く無い 展望=ほとんど無い
低山だが奥が深い山
コースとタイム
下土狩5:00−S点発7:00−鈴野峠10:10(周辺調査あり)−鈴野山11:00−G
点着11:20
標 高 差
出発点約150m〜鈴野山486.8m=約337m
参 加 者
5/24 CL・後藤隆徳(56)、加藤秀子(54)、ほか1名
6/21 CL・後藤隆徳(56)、加藤秀子(54)、堀合喜義(54)

 梅雨中休みの陽射しの強い晴天の日であった。
地域研究という里山登りであった。西伊豆方面に加藤の運転で車を走らせた。車窓から、夏の色濃い
青い海、空を眺め、見慣れた今風の家並みから、川沿いの山間の道に入り、歴史と伝統を感じる「南
郷」という地に至った。

 居合わせた中高年の女性と男性に、「この山はなんと言う名前ですか?」と尋ねた。すると女性は「わ
からない」と答えたが、男性は「南郷山」と答えた。素朴で親切な人柄であり、又「南郷山」という声には
身近な山という響きがあった。しかし、山の道については全くわからない様子であった。

 早速、後藤を先頭に加藤、堀合の順で道無き山の藪漕ぎとなった。ダニの心配をしながら、久し振り
に大汗と息切れを味わいつつ、必死に、離れていく前の2人を追いかけた。途中、何回か待ってもら
い、やっとの思いで標高501,2mの通称「南郷山」頂上に辿り着いた。頂上は雑木が伐採され、人の
入った跡があったが、そこに至るまでは人の入った形跡を見つける事ができなかった。
 
 大分前であるが、「山の入会権」「財産区」の件で古老の話を聞く機会があった。其の時古老は「昔は
裸足で里山に入っても足に怪我をすることが無かったほど、手入れをしていた。」と嘆いていたことを思
い出した。里山の手入れも大変だったようだ。手入れの内容はわからないが、かなりの負担があったと
想像できる。又、それだからこそ里山は地域に密着した存在で、蒔きや食料の物理的恩恵だけではな
く、故郷を離れ望郷の念に駆られるとき、必ずや家族や故郷の人々と共に脳裏をかすめ、力づけてく
れた風景の一つであったに違いない。

 又、詩や和歌に詠まれ、日本人の精神的風土を形造った存在でもあった。日本中至る所にあった里
山も戦後の社会、経済の改革により生産、流通の飛躍的な発展と、生活様式の変化、価値観の多様
化、思考形式の変化に伴い、従来の地域固着型の生活様式ではおさまらない所へ社会が突き進み、
ほとんどの人々が里山の存在を忘れてしまい放置した。

 「南郷山」を下りたとき、裾野の田に引く水の中に、川蜷と山女魚の稚魚が群れていた。夏草の濃い
青色の中を歩きながら後藤氏が「登山家は最後に里山に帰ることが多い」と言った。山に対する思い
入れが、今ひとつ増えた山行であった。
車は西海岸を進み、松崎を通過し、岩科から蛇石峠に向かう。2万5千図の標高約150mのヘアピ
ン・カーブ付近で車を捨てる。カーブの奥に畑が広がる。一旦、沢に降りて対岸に渡ると、地図の山道
が延びていた。
 沢沿いの山道を進む。藪はそれ程ではない。鈴野峠には沢沿いを直進するが、道はなかった。左の
微かな踏み跡を辿る。上部は結構、藪があった。藪をかき分けて稜線に立つと、風がさわやかだった。
 尾根道はハッキリしていた。右(西側)は植林、左(東側)は自然林が広がる。大きなエビネ、名前の
分からないランが咲いていた。標高が500m前後のピークが幾つも続き、現在位置確認が難しかっ
た。木に上ってルートを確かめる。途中のピークから、前回上った「馬夫石(まぶいし)」が認められた。
 右往左往し、ようやく鈴野峠に辿り着く。かつて多くの人々が、通ったと思われる峠には、優しい表情
のお地蔵様が二体並んでいた。地蔵様には、天明○○年七月八日の刻みがあった。          
 ここから、しばらく急登が続いた。両側に切れた岩場があった。岩場には「イワヒバ」が、たくさん付い
ていた。結局、鈴野山の三角点は分からなかった。捲土重来です。

6月21日
 前回、三角点が不明だったので再び鈴野山を訪れた。今回は、前回下山した青野方面から入山。標
高250m付近から西に向かうが、道はすぐ無くなった。
 植林伐採跡を上に上に強引に上る。程なく顕著な尾根に導かれる。少し岩っぽくて面白い。前方に鈴
野山が望まれた。
 簡単に三角点、山名板を発見。頂上から北東に向かい、前回の道を下った。