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 創立10周年記念山行・地域研究                                          南郷山
通算山行
bP5
報告者
堀合喜義
年 月 日
2003年6月21日(土) 天気:晴れ
二万五千図
仁科・伊豆松崎
山  名
南伊豆山塊・南郷山(501.2m)
体力度=3 技術度=3 藪漕=少しある 道標=全く無い 展望=ほとんど無い
こんな所に500m峰が
コースとタイム
S点発9:40−テレビアンテナー南郷山12:05〜13:25−G点着14:30
標 高 差
出発点約40m〜南郷山501.2m=約461m
参 加 者
CL・後藤隆徳(56)、加藤秀子(54)、堀合喜義(54)

 梅雨中休みの陽射しの強い晴天の日であった。
 地域研究という里山上りであった。西伊豆方面に加藤の運転で車を走らせた。車窓から、夏の色濃
い青い海、空を眺め、見慣れた今風の家並みから、堂ケ島の先、那賀川沿いの山間の道に入り、歴史
と伝統を感じる「南郷」という地に至った。
 
 居合わせた中高年の女性と男性に、「この山はなんと言う名前ですか?」と尋ねた。すると女性は「わ
からない」と答えたが、男性は「南郷山」と答えた。素朴で親切な人柄であり、又「南郷山」という名前に
身近な山という響きがあった。しかし、山の道については全くわからない様子だった。

 2万5千図、仁科・南郷の送電線下、破線から出発。ここには一軒の別荘がある。早々、後藤を先頭
に加藤、堀合の順で藪漕ぎとなる。ダニの心配をしながら、久し振りに大汗と息切れを味わいつつ、必
死に、離れていく前の2人を追いかけた。
 別荘地から植林を破線通り東に上る。尾根に出ると道はあった。理由はこの先に下の集落の共同テ
レビアンテナがあるからだ。伊豆の山間部はテレビ電波の弱い所が多く、しばしば共同アンテナを見
る。
 標高190mに立派な共同アンテナがあった。たまたま製作管理者の下田の業者がいて点検を行って
いた。
 ここにはもう一本、アンテナの点検整備用の道が東から伸びている。東下の峰輪集落・中川小学校
の入り口、那賀川に「しろかに橋」が掛かる。ここが出発点である。
 ここから尾根道は藪になる。しかし、昔の道はわずかに残っている。途中は相当、急登を強いられ
る。今日はやけに暑い日で、汗がしたたり流れる。途中、二人には何回も待ってもらった。
ここの頂上は東西の二つのピークから構成される。頂上は一定の高さで自然林が覆っていた。東峰を
巻いて三角点の西峰に向かう。鉢巻道がある。
 藪をかき分けると、頂上に達した。測量のためか回りは綺麗に刈り払われていた。
 ただ、いつもの山名表示板は無かった。と、いう事はあの山名表示板は測量関係者のものではない
と言える。誰か好きな人がいるのだろう。一本の木に「田口幾雄」の彫り込みがあった。今日は余りに
暑くビアの酔いも手伝い、今日はここまでとし、久し振りに昼寝を楽しむ。木陰を渡る風が何とも心地良
い。
 
 大分前であるが、「山の入会権」「財産区」の件で古老の話を聞く機会があった。其の時古老は「昔は
裸足で里山に入っても足に怪我をすることが無かったほど、手入れをしていた。」と嘆いていたことを思
い出した。
 里山の手入れは大変だったようだ。手入れの内容はわからないが、かなりの負担があったと想像で
きる。        
又、それだからこそ里山は地域に密着した存在だった。まつりごとの精神的恩恵や食物の物理的恩恵
だけではなく、故郷を離れ望郷の念に駆られるとき、必ずや家族や故郷の人々と共に脳裏をかすめ、
力づけてくれた風景の一つであったに違いない。

 又、詩や和歌に詠まれ、日本人の精神的風土を形造った存在でもあった。日本中至る所にあった里
山も戦後の社会、経済の改革により生産、流通の飛躍的な発展と、生活様式の変化、価値観の多様
化、思考形式の変化に伴い、従来の地域固着型の生活様式ではおさまらない所へ社会が突き進み、
ほとんどの人々が里山の存在を忘れてしまい放置した。

 「南郷山」を下りたとき、裾野の田に引く水の中に、川蜷と山女魚の稚魚が群れていた。夏草の濃い
青色の中を歩きながら後藤氏が「登山家は最後に里山に帰る」と言った。山に対する思い入れが、今
ひとつ増えた山行であった。
 那賀川はすでに夏。後藤氏は余りの暑さに我慢できず、パンツ一枚で川遊びに興じた。